なんとなく今やっていることについて言語化できるようになってきたからメモ。

大きな話からはじめる。
日本は2000年代からようやく成熟期に入った。
敗戦後、マッカーサーに”「科学や芸術や宗教や文化の面」でみてアングロ・サクソン人が45歳くらいであるとすれば、日本人は”12歳の少年”のよう。”といわれて以来、経済成長を終えて、停滞と苦悩を味わいつつ、ようやく体裁だけは先進国になって30年か40年。二世代ほど世代も進んだ。

70年代に雑誌『ポパイ』や、その前の『宝島』でアメリカ文化に憧れたように基本的にはアメリカがモデルだった。今もオレゴン・ポートランドをモデルにしたり、小商いを志向したりしているのも、魅力的だったアメリカのその後の成熟モデルを参照しているともいえる。
その前にはフランスやイタリアの文化を学んだり、東欧や北欧を参照したりして、少しずつ文化的な素養は高まってきた。
80年代に比べれば、ワインやコーヒー、食を取り巻く環境をみるだけでも、いかに水準が上がったか。そして、自国の江戸時代以前の風土にあった文化や美意識と接続・融合がこの10年くらいで一気に進んでいる。

反面、自国の消費のクオリティが上がると、学ぶ気持ちや憧れ、謙虚さも薄れてくる。
外への意識がなくなっていくのと同時に、資本の規模が大きくなりすぎて仕組みが見えないグローバル経済環境においては、システム的に生み出される経済的な格差も広がって、そんな余裕がなくなる人も増えてくる。

政治はグローバル化に伴う経済構造の変化についていけない、おいていかれる恐怖から、どの国でも内向きな極端な姿勢・右傾化ばかりが目につく。

しかし、社会は少しずつ発展し、成熟するべきだ。”発展”は定義が難しい。すでに充分とも思う。足るを知ることで済むのかもしれない。

“成熟”はどうだろう。
衣食住は快適で、身体は健康、人々のそれぞれの違いや嗜好や多様性はできるだけ守られ、経済的な格差は少なく、知性は大切にされ、文化的な素養や楽しみもありつつ、自然を感じる力や文明的な快楽もあって、ハレの日もケの日もあって、四季の移ろいを感じられる。

個人的にはそういう方向がいい。

ITやAI、農業やロボット産業やエネルギー効率の進歩をうまく使えば、高度にバランスのとれた社会の仕組みというのも実現できる気もする。

少し飛躍するけど、デザインの力がやっぱり日本を救うんじゃないかということには疑問をあんまりもっていないのだということ。

あとは、どう今ある材料を組み合わせて、うまく使うか。デザインとマネジメント次第で、絶対に社会はよくなっていく。政治も、ポピュリズム的で、コミュニケーションや自意識の承認の問題が大きくなっている。
国や県のような単位でも少し大きすぎるように思えるし、フィルタリングとか切り分けはいるかもしれない。どういう規模で考えるかは難しいけれど、地域コミュニティや集落のような単位では全然問題なくいける。(「ダンパー数」といわれる150人が小集団の上限の一つの目安になる。)

風土や知恵に磨かれた戦前の文化的な遺産や建築物にはいろいろな伝統やヒントがあるし、現代に合わせてかたちを変えつつなるべく残すべきだし、知恵は伝えていくべきだ。
とはいえ大きな地震はこわいし、気候も亜熱帯みたいになりつつあるし、家や農林水産は気温や天候の変化には対応しないといけない。エネルギー効率のための機密性や空調などの考え方も変わっていく。

そういうのも、制度設計含め、地域や社会についてのデザインの仕事のうちだ。古材を集めたり、リノベーションとか地域のコンテンツの掘り起こしをやってるのはきっとそういう流れにある。

近い将来、まちづくり企業や何らかの団体をめざす必要が出てくるのかもしれない。
自分がやりたいというかやるべきことをやると、今のところそういう方向に向かっている。

知多デザイン事務所は、”知多のデザインを向上する事務所”としてつけた名前だけど、気概としては、ロールモデルの作成を通じて、”知多をデザインする”、さらには。”知多半島をモデルにした新しい暮らしのデザインをする事務所”でありたいと思っています。